史上最も複雑な時計のひとつだった。

史上最も複雑な時計のひとつは、毎年恒例のイースター休暇を本当に計算できるのだろうか?

パテック フィリップが創業150周年を記念して、初代Cal.89を発表したとき(1989年)、それは史上最も複雑な時計のひとつだった。Cal.89に搭載された最も珍しいコンプリケーションのひとつは、イースター(復活祭)の日付を示すものであり、(私が知る限りでは)それ以降同じものは作られていない。その理由は、パテックがイースターの日付表示メカニズムの特許を持っているからだけではない。真のイースター日付複雑機構は、時計製造においておそらく最も困難な複雑機構であるという事実も関係しているのだ。それだけに、Cal.89にもかかわらずどう考えてもそれは不可能かもしれない。

Patek Caliber 89 dial recto
パテック フィリップ Cal.89。ラトラパンテクロノグラフ、ムーンフェイズ、パーペチュアルカレンダー、そしてチャイムのコンプリケーション機能を搭載している。

販売されたCal.89

史上4本しか製造されなかったCal.89のうちの1本が、まもなくジュネーブ・サザビーズで販売される。5月14日に予定されているロット171のリストはこちらからチェックを。

Cal.89のイースター日付機構は、1983年にパテック フィリップが特許を申請したものである。この特許には、イースターの日付メカニズムの発明者として、ジャン=ピエール・ミュジ、フランソワ・ドヴォー、フレデリック・ゼシガーが名を連ねている。ジャン=ピエール・ミュジは40年近くパテック フィリップに在籍し、長年にわたり同社のテクニカルディレクターを務めた。イースターの日付を表示する機構は、1989年から2017年までの正しい日付を表示するよう設計された。今、Cal.89の4本の時計がすべて修理を必要としている理由は、Cal.89が正しい日付を“認識”している仕組みに関係している。

イースターは、キリスト教暦の“移動祝日(年により日付が変わる宗教上の祝日)”のひとつ。毎年違う日が祝日になるのだ。イースターの基本的なルールは、春の最初に訪れる満月(春分の日のあとの最初の満月)のあとの最初の日曜日だ。そして天文現象により、イースターの日付は毎年変わる(暦の不規則性と同様、ただひとつの日付を選ぶというさまざまな提案が何世紀にもわたってされているが、今のところどれも定着していない)。このため、イースターは3月22日から4月25日のあいだのどこかとなる。

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 Cal.89のイースター日付機構は、ノッチ付きプログラム歯車のおかげでイースターの正しい日付を認識してくれる。基本的に、プログラム歯車は1年ごとに1ステップずつ進み、各ステップの深さは異なる。その深さに応じて、イースターの日付を示す針がその年の正しい日付にジャンプするのだ。

Diagram, date of Easter mechanism, Patek caliber 89
パテック フィリップ Cal.89のイースター日付機構。オリジナル特許より。

 そのメカニズムは結構シンプルだ。上の特許図面からは、3時位置のすぐ右側にプログラム歯車と、実際の針を動かすクエスチョンマーク型のラックが見える。そこに針そのもの(15番)と、正しい日付にジャンプした針を固定するための渦巻バネが示されている(ラックはレバー27によって持ち上げられ、レバー27は28で回転する。同じレバーは、歯車40を介してプログラム歯車を記録する。ラックの足がプログラム歯車のステップ10のいずれかに乗っており、26のバネによって固定されているのがわかるだろう)。

 この独創的に設計されたメカニズムの唯一の問題は、プログラム歯車のステップ数が限られていることだ。プログラム歯車を見ると、古典的なパーペチュアルカレンダーの中心にあるものを思い出すかもしれないが、うるう年のサイクルは4年に1回(100年と400年で補正があるが、これも予測可能な周期だ)確実に繰り返される。一方、イースターの日付はもっと長い年月の間隔で可能な日付の完璧な順序を繰り返すため、プログラムディスクへ完全に変換することはできないのだ。

Patek Philippe Caliber 89 astronomical indications
Cal.89のイースターの日付は、天空星座図の上のセクターに(レトログラードで)表示されている。

 イースターの日付を計算するのは、昔はそれほど複雑ではなかった。ユリウス暦による規則がかなり単純だったからだ。満月の日の完全な周期は、235の太陽月からなる19年周期に従うと考えられていた(ヴァシュロンの超ハイコンプリウォッチ、57260の取材記事で覚えているかもしれないが、いわゆるメトン周期だ)。そしてユリウス暦の完全な周期は76年であった(4回のメトン周期のあと、19×4=76年で、完璧にうるう年周期も完了する)。イースターの日付は、ユリウス暦では536年ごとに繰り返される。イアン・スチュワートが2001年のサイエンティフィックアメリカン誌の記事で指摘しているように、数学的原理は“532年は76年(ユリウス暦の周期)と7年(1週の日の周期)の最小公倍数である”。しかし周知のように、ユリウス暦は太陽の周りを回る地球の実際の時間と、暦の日数を適切に補正することができず、次第に季節と大きくずれていった。

 そこにローマ教皇グレゴリウス13世が現れた。彼は新しい暦(現在のグレゴリオ暦)を制定し、ユリウス暦のずれを修正するために、1582年10月4日(木)の翌日を、10月5日(金)ではなく、10月15日(金)とする一度限りの更新を命じた(家主側が1週間半分の家賃を奪おうとしていると見て、多くの農家がこれに反発したという)。

Bust of Pope Gregory III, Mengati
教皇グレゴリウス13世の胸像。1559年、アレッサンドロ・メンガティ作。Photo: Wikimedia Commons

 新しい暦では、イースターの日付を計算する新しい手順が導入された。各年にはエパクト(Epact)と呼ばれる番号が割り当てられ、これは1月1日の月齢を表していた(各番号は1から29のいずれか)。また毎年1月の第1日曜日には、対応する文字が与えられた(A~G)。これらの“主日文字”(うるう年は2になる)とその年のエパクト、そしてゴールデンナンバー(メトン周期の位置)は、イースターの日付を計算するために使用される材料となる。ただこれらは基本的なものにすぎず、教会論の月と彼岸を天文学的なものに適切に合わせるためには、実際の計算がはるかに複雑になる定期的な調整が必要となる(物事がいかに早く複雑になるかを知るには、エパクトのサイクルに関するこちらの記事をご覧いただきたい。きっと信じられないほど細かい部分への関心が高まるだろう)。

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 いくつかのポイントがある。まず、計算で考慮される天文現象は抽象的なものである。教会論は3月21日を春分の日と決めているが、実際の天文学上の春分の日は年によって異なる。第2に、天文学的な満月と教会論の満月は必ずしも一致しない。グレゴリウス13世が暦を改革して以来、そしてそれ以前から、イースターの正しい日付を吐き出すアルゴリズムを作ることは、数学者にとって気晴らしになっていた。19世紀最大の数学者と呼ばれるカール・フリードリヒ・ガウスは、1800年にこのようなアルゴリズムを考案し、ドナルド・クヌース(彼はジョン・コンウェイが発見した無限大よりも、はるかに大きな数の集合を発見したことを表す“超現実数”という言葉を作ったことで有名)は『The Art Of Computer Programming』のなかで、 “中世ヨーロッパにおける算術の唯一の重要な応用は、イースターの日付の計算であったことを示す多くの証拠がある”と書いている。

Astronomical dial of the Caliber 89, with indication of sunrise and sunset, the Equation of Time, star chart, position of the Sun along the Plane of the Ecliptic, and the date of Easter.
Cal.89の天空星座図には、日の出と日の入り、時間の方程式、星座早見盤、黄道面に沿った太陽の位置、そしてイースターの日付が表示される。

(教会暦で)イースターの日付を計算する方法をコンプトゥス(computus)と呼ぶ。プログラムディスクに頼るのではなく、真の機械コンプトゥスを作ることは可能なのだろうか? 答えは“一応できる”だ。最初の本格的な機械コンプトゥスは、ガウスがアルゴリズムを考え出してまもなく作られたようで、現在はフランスのアルザス地方にあるストラスブール大聖堂の天文時計という、多くの時計愛好家が知っている場所に設置されている。実際には1354年頃から3つの連続した天文時計があったのだが、最新のものは1843年に完成した。ジャン=バティスト・シュヴィルゲによって設計されたこのコンプトゥスは、おそらく史上初の本物の機械コンプトゥスを備えている。機械コンプトゥスはこれだけではないが、ほかのコンプトゥスに関する英語の文献を見つけることはできなかった(ストラスブール大聖堂のコンプトゥスに関する本の書評の転載版には、ほかにも少なくともふたつの“似たような”機構があると書かれている)。

 確かに、動作原理という点ではこの種の時計は唯一無二のものだ。私はそれがどのように機能するかを積極的に研究しようとしているが、控えめに言っても困難な状況だ。コンプトゥスを使わなくとも、時計自体は時計製造において名作だ。1999年、サイエンス誌に掲載されたブライアン・ヘイズの記事によると、時計の天文列には2500年に1回転する歯車があり、さらにこの時計には、2万5000年に1度だけ春分歳差運動を示す軸を中心に1回転する天球儀が搭載されているという(同記事は2000年問題への対応と、ストラスブール大聖堂の時計がいかにして2000年問題への対応を果たしているかについてのものだった)。

The astronomical clock in Notre-Dame-de-Strasbourg Cathedral
ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂の天文時計。Photo: Wikimedia Commons

 時計に興味のある人(そして知性を追求したい人)には幸いなことに、このコンプトゥス機構を見ることができる。それは時計の台座の左下にあるケースに展示されている。歯車の集合体のなかには、今年のエパクトと、現在の主日文字の表示があるのがおわかりいただけるだろうか。黄金比、またはゴールデンナンバーは、計算にも必要なメトン周期におけるその年の位置に対応する数字であり(図が示すように、1から19まで)、これも計算に必要である。